【第五人格スピンオフ小説】八夜談ー鏡裡の月ー

2022-01-26

八夜談ー鏡裡の月ー

 

1

 

 彼を待っていたときのことだ。私は、ある一句を思い出した。

 それは、ある詩人の遺言だ――『月の光も、銀鏡を逆様に置けば、流れ出て尽きてしまうもの』

 そんなものかと、不思議に月を眺める。皓皓と月が照らすこの街でも、物騒なことに今月は四件の失踪事件が発生していた。

 

 さておき、写真のモデルを依頼した男だが、約束の時間から一時間と七分を過ぎてもまだ来ていない。但しこの遅れた時間については、この邸宅の執事がきちんと古時計のゼンマイを巻いていたら、もっと長くなっていたに違いない。

 カーニバルのポスターに浮かんだ彼の滑稽な顔を見たとき、サーカスの宣伝ポスターなぞからモデルを選ばない方が良いと私の理性が訴えたが、すぐに端へと追いやる。この顔を見て、拒むことができる写真家はいないだろう。

 約束した時間から二時間ほど過ぎた頃、ようやく使用人が本日のモデルを連れて、通用門から邸宅へと入ってきた。

 年老いた使用人はうんざりした顔を浮かべている。そして彼は私に「遅刻の原因は、サーカス団で三、四回ほどアンコールがあったことと、帰り道で警官の検問に引っかかったためです」と愚痴をこぼすように告げた。

 すると、か細い声がその背中の後ろから聞こえた。「いえ、アンコールは五回でした」

 

-

 

 薄情さと厳格さがもろに顔に出ていた若かりし時分、私は貴族の邸宅に招かれるたびに、庶民の反応を好んで観察していた。

 現在のジョーカーは、まさにそうした反応の集合体と言えるだろう。サーカス団で泣き顔のピエロを演じているときの彼の表情は、あまりにも滑稽で邸宅へと招き入れることにしたのだ。現在、彼は既に化粧を落としている。その表情は、長時間公演をした疲れがまったく見えないわけでもないが、活気に満ちたものだった。その奇妙な表情には、ありとあらゆる感情が迸っていた。

 その大きな目はまるで小型犬のように潤みを帯びて、とても純粋で無垢な感じがする。検問をしていた警官も彼の目を見るなり、爆笑して解放してくれたほどだ。

「なので、警官に疑われたのは私ではない。君の執事だ」そう、ジョーカーは続けた。「ここ一ヶ月、この街では多くの人間が失踪している。この執事はとても険しい顔だ。ここ一ヶ月、失踪者をアフタヌーンティーの添え物にしていたとしてもおかしくはないだろう、と」

 最近街で起きている失踪事件について、それはカーニバルのサーカスの仕業で、サーカス団が住民を連行して、正常な人間を奇形にし、ピエロとして出演させているのではないかという噂が囁かれている。

 そのことについて、ジョーカーは慌てて説明した。「そんなことあるはずがないだろう。そんな話、聞いたこともない。サーカスのショーには、才能がなくてはならない。誰でもできることではない……」

 私は遮光布の後ろで、彼の呟きをよそに、写真のネガフィルムの位置調整を続ける。

「なにもサーカス団だけが噂の的になっているわけではない。貴族にも、似たような噂があるだろう? 永遠の若さを手に入れられると信じて、少女の鮮血で沐浴をする女伯爵の話とかね」それを聞いて、彼は言った。「君はとても若く見える。もしかしたら、似たような美容法を取り入れていたりしてるんじゃないだろうか」

 

2

 

 ネガを保管していた箱が湿っていたとき、新しいネガを買うには、この片田舎の場合、街の写真館まで行かなくてはならない。

 ネガが届くのを待っている間、街ではまた何件かの失踪事件が起きている。そのせいで私の馬車ですら、途中で止められてしまう始末だ。とはいえ、警官は馬車の紋章を見て、すぐに解放してくれた。由緒ある一族の持つ紋章が、最大限に効果を発揮した場面だ。

 夜には夜間外出禁止令が敷かれている。遙か彼方に、川の対岸のカーニバルの灯火だけが煌々と光っていた。

 

 それから、ジョーカーは昼間にやってくることもあった――サーカス団『ノイジー』の公演は昼と夜の二部制で、夜公演は夜通し行われるためだ。その後、団員たちが一眠りするともう午後になっている。

 ジョーカーが興奮した面持ちで、邸宅にある庭園の鉄門をくぐり抜けた。足を引きずりながらも、その足取りは軽い。彼は生まれつき足に先天異常があり、おかしな歩き方になっているのだ。

 サーカス団で育ったこの若者には、外の世界に友はいない。今回の件で、貴族の邸宅に招かれ、初めて外界との繋がりを持つことができたようだ。

 

 彼はモデル用の椅子に座る。そして、私の方へと顔を向けて写真に取られるのを待っていた。執事が暇つぶしに「どうぞ」と、私の作品集を彼に手渡す。ジョーカーはパラパラとページをめくっていたが、突然興奮した表情になった。

 私は動かないようにと彼を諫めた。

 ジョーカーは写真をそっと指差して言った。「私の両親にそっくりだ」

「ほう? 君の両親だって?」

 私はそのことについて、詳しくは知らなかった。だが、サーカス団にいるピエロの生い立ちについて知っている者などいるのだろうか? 団長が熱帯雨林で拾ってきた可能性だってあるだろうに。

 しかし彼は、ただ無邪気な笑顔を浮かべた。そして、あっさりとこう言った。「私の両親も、サーカスの団員だ。今は、別のサーカス団で巡演している」

 ジョーカーの眼は期待に満ちていた。少しでも多く、モデル料がもらいたいのだろう。サーカス団員が現役でいられる期間は短い。年を取れば収入が減ってしまうため、その前に十分な蓄えをしておかなければならないからだ。彼は定期的に両親の用意した代理人に、仕送りをしているらしい。

 両親の話になると、ジョーカーはパッと顔を輝かせた。「ピエロの才能は、両親から受け継いだものだ。おかげで私は、サーカスで一番人気のあるピエロになれた。以前受け取った両親からの手紙には、数年後、お金が十分に貯まったら、一家で田舎に居を構えられると書いてあった」

「それで、どれくらい仕送りをしているのでしょう?」入り口で待機していた執事が、興味津々に尋ねた。

 九割ほどだ、とジョーカーは答えた。少しでも早くお金を貯められれば、その分だけ早く家族と再会できるから、と。

 執事は肩を竦めて、同情の言葉を呟いた。

 

 ジョーカーは、その写真をいたく気に入ったようだ。その写真に写る夫婦の顔が、サーカス団の団長から伝え聞いていた両親の顔にそっくりらしい。

 この哀れな男は、一度も両親を見ないまま、生まれてすぐにサーカス団に売られたのだろう、と執事は推測した。

 

-

 

 四度目となった面会で、彼は警官と共に私の邸宅へとやってきた。

「それで、卿……」警官は私の爵位を計りかねているようで、躊躇った後に話を続けた。「泣きピエロを送って来ました。彼は橋の袂で柄の悪い連中に絡まれてましてね。見た目からすぐにこいつだと分かりました」

 警官は帽子を軽く持ち上げて、立ち去ろうとした。そのとき、チラリと私へと視線を向けた。

「あなたには、どことなく懐かしさを感じます。私がまだ幼かった頃、あなたの一族のひとりが、この邸宅へと越してきたのです」

「私の先祖ですね」

「私はそのとき、父の代わりに薪を配達しました。ここの主人が馬車で出かけるのを偶然見かけたのですが……あなたは、その方と瓜二つです」

 

 失踪事件が頻繁に起きていて、それにサーカス団が関わっているなどという流言まで加わり、深夜にカーニバルへと出向く人は減ってしまっていた。その影響で、ジョーカーの収入にも相当影響を及ぼしていたようだ。

 それだけではない、彼はもう『一番人気』のピエロではなくなった。曲芸師の夫婦が、彼に成り代わってしまったのだ。

 私は僅かに残っていたネガを使い、彼の横顔を撮影した。「朝街を出るとき、城門に彼らのポスタが貼られていた。そのピエロの顔は、ピエロっぽくなかったな」

「セルゲイは、微笑みピエロだ」

「どういう意味だ? 私は普段、サーカスを見なくてね」

「彼はスマートで粋なピエロ役として、女性を喜ばせる。私は哀れなピエロ役として、皆を笑わせるのだ。それは良いのだが……」彼は何やら思い出したようで、項垂れて頭を振った。「女の子たちは皆、彼に夢中だ」

 ――記憶違いでなければ、セルゲイのポスターには踊り子の姿もあった。すると、ジョーカーは「それはセルゲイの妻、ナタリーだ」と言った。

 

3

 

 客観的に見て、ジョーカーとセルゲイを隣に並べるのは、間違いなく酷だろう。噂によると、地元では名門貴族の女性たちが密かにセルゲイのポスターを収集していると聞く。それだけではない、大金をはたいて張り替えになった彼のポスターを買ったり、カーニバルで一番良く見える座席を購入しているらしい。

 美しさの前では、滑稽なものに価値は見出されない。

 サーカスを見に行ってみようか、と思った。しかし、貴族があのような場所に足を踏み入れるというのは如何なものだろうか? 少なくとも平民に混じって席に着き、獣臭い空気を嗅ぐべきではないだろう。

 ジョーカーは、暫く顔を見せていない。彼はあの日、ひどく狼狽えた様子で、足を引きずりながら帰っていった――それは、彼が私にあのような冗談を浴びせて怒鳴られたせいだ。

「もしも君がもう少し年配者なら、私は君が最初のピエロだったのではないかと疑っていただろう。何故なら、君も最初のピエロも『ジョゼフ』という名前だからだ」

 

-

 

 私の贈り物を受け取ったジョーカーは、その二日後にまたここへとやってきた。

 顔は傷だらけで、大きな両目をいつも以上に腫らしていた。

 

 彼は以前よりも言葉少なになり、くどくどと話さない。理由を尋ねると、ある女性のために、セルゲイと喧嘩したからのようだ。

「君は知らないだろう、彼がナタリーにどんな態度を取るのかを。私はナタリーに対してあらぬ感情なんて抱いていない。彼女はただの友人に過ぎない……いや、友人だと思うようにした、が正しいな」

 私はそれでおおよその見当がついた。私の知る限り、夫のいる女性を好きになった者はろくな目にあわない。

 ましてその女性のために動くなど、奇行なことだ。根も葉もない噂をされて気まずくなるだけで何の得もないだろう。

「なんて哀しげな顔だ、実に素晴らしい。写真を撮らせてくれ」

「好きにしたらいい。今はショーにも出られないしな」

 当然のことだ。そのひどい顔は、まるで地中海の航路図みたいだ。

「あの写真を見せてもらえないだろうか?」彼は頭を下げてそう言った。「あの夫婦の写真は、一枚しかないのだろうか? 実に不思議だ、あの写真は随分と年代ものなのに、君はこんなにも若々しい……」

 

 私は執事に全ての作品集を持ってこさせた。これらの作品は、各地で一族の邸宅を行き来する際、肌身離さず持ち歩いているものだ。

 ジョーカーは、あの夫妻の写真を探した。しかし残念なことに、それは四、五枚しか見つからなかった。写真の裏側には十年ほど前の日付が記されていた。

「私の両親が最後に手紙を送ってくれたのも十年前だった……そこには、もう少し仕送りをしてほしいといった旨が書かれていた……」

「なぁ、少し顔を上げてもらえないか。ここは若干暗くてね」

「わかった。あぁ、そういえば団長が言ってました。私の顔の上半分は母に似ていて、下半分は父に似ている、と。それが合わさっているから、お前の顔は面白いのだと……」

「話はここまでにしようか。君の顔の面白さが失われてしまう」更に私は付け加えた。「これが最後の撮影になる。もうすぐ私は、ここから出ていくからな」

「そうか」ジョーカーは顔を上げた。だが、何も言わない。しかしその瞳には、大粒の涙が溢れていた。

 

 彼が邸宅から帰った後、辺りはすっかり夜に染まっていた。私は執事に、彼を送るための客用馬車を準備させる。

 更に私は、あることを伝えた。「実は、あの夫婦の写真で、まだ現像していないネガがある。君も興味あるんじゃないかな」

 ジョーカーはまだ泣き止んでいなかったが、鼻をすすって呟く。

「ありがとう……私は初めてサーカス団以外の人と……」彼は、ぐしゃぐしゃになった顔で、必死に喋ろうとしていた。「以前の私には、あんなこと……ナタリーを守るためとはいえ、セルゲイとやり合うなんて、そんな勇気はなかった……きっと、僅かでもサーカス団以外の人と話せたことで、小心者ではなったのだろう……」

「少なくとも君は、夫のいる女性の前で勇ましい姿を見せることができたな」私はその行動を、どう評価したら良いのかわからず、すぐに出てこなかった。

「だが彼女は、私に見向きもしなかった。彼女はただセルゲイの後ろで、彼の顔を心配そうに見ていた……分かっている、セルゲイは彼女の夫だ。けれど私には……私のことを心配してくれる人など誰もいない……」ジョーカーのあげた泣き声が、夜風にかき消された。「私は、よく両親に手紙を書くが……ここ数年だと何通書いたかわからない。けれど忙しいのか、一度も返事が来たことはなかった……」

「もしかしたら、売り渡したらもう君には関わらないという約束で、ご両親は君をサーカス団に売り払ったのかもしれないな。君が大きくなったら、定期的に仕送りだけしてもらえたらいいと思って」

「――預けられただけだ! 売られた訳じゃない!」彼はそこまで語気を荒げて叫んだのは初めてだ。「団長が言ってくれたんだ。両親は私を売ったのではなく、一時的に預けられただけだって……」

 この声は段々と細くなっていった。最後には、すすり泣く声だけが響いた。

 

「悪かった。ネガの件……楽しみにしている……」彼は震えながら身を翻す。そして、馬車へと乗り込んだ。「どうか、素敵な夜を……」

 

4

 

 ある大雨の晩のことだ。私は、この小さな街から旅発つ準備をしていた。執事から、ジョーカーが訪ねてきたと言われたが、特段驚くことはなかった。

 彼は濡れ鼠のような状態だった。布を体に巻き付けて項垂れた様子で、シルク生地のソファーに 身を沈めている。以前の彼は、ソファーを汚すことをひどく恐れていたが、今日は全く気にしていないようだ。

 彼の表情を見ると、かつての影もないほどに変わり果て、まるで焼け爛れているかのようだった――先日、セルゲイと殴り合った件で彼の恨みを買い、舞台用の白粉を腐食物質にすり替えられたらしい。

 

「ネガを受け取った……それからメモも……」真っ赤な花が咲き誇ったかのように、その顔に双眼が浮かび上がり、私を見上げている。「あれは面白い……とても面白いものだな……」

 彼は囁くように小さな声でそう言った。若し唇を更に左右に引っぱったらば、きっと白骨が突き出てきてしまうだろう。

 それは十枚で一つのセットになっているネガだった。夫婦の死体が、新鮮な状態から腐りゆく過程を記録したものだ。十年前、私はこの邸宅で、ひと夏を過ごした。その頃、彼らはサーカス団の巡演に参加しており、私のモデルとなった。

 私のモデルとなった人間は、いつも最後の撮影で、私に命を預けてくれている――今のところ、例外はジョーカーだけだった。

「噂通りさ。ある貴族は……永遠の命を手に入れる方法を知っているんだ」私はジョーカーの正面に座って、人相が分からないほど血みどろになった彼の顔をまじまじと見つめた。「それは呪いであり、祝福だ。或いは、禁断の魔法か……だが、そんなことはどうでも良い。重要なのは、その話が私にとって都合が良いということだ」

 人々はモデル料目当てで私の邸宅を訪れる。最初は彫刻のモデルを頼んでいたが、それがいずれは油絵となり、今では写真のモデルとなった。

 死体は庭園に埋められて、携帯品は全て地下室で保管されている。あの夫婦の持ち物は少なかった。ただその中に、一通の契約書があった。だから、ネガと一緒にジョーカーに送ってやったのだ。

『この子供は、双方の同意した価格でノイジーサーカス団へと売却されます。契約後、一切キャンセルできません』

 

 ジョーカーは契約書を放り投げ、ネガを強く握りしめると、ケタケタと笑い続けた。

「それなら、なぜ私を放っておく?」彼は顔を上げた。蝋燭の火が血だるまの顔を照らす。「私は全てを失ってしまった」

「全てを失った人間の命には、興味がなくてね。君は生きたまま、ここを去れるんだ」そう言って私は、彼に金貨の入った袋を渡した。「これをしっかり仕舞っておくんだな。君をサーカス団から呼び寄せたこと、私は少しだけ後悔している。君は一生、あそこにいるべきだった」

「ピエロとして?」

「君はセルゲイよりも、よっぽどピエロらしいからな。もしも今ここにネガがあったなら、君の顔をフレームに収めたかった。もし君がサーカスに出演していたなら、君のショーを見に行って、一番良く見える席に座っていただろう。そして、終演後には大枚を叩いて、君のポスターを買っていただろうに」

「今の、この顔が良いのか?」

「そうだ。君の、今の顔が良い」

 

ジョーカーは長机の上に置かれていた鏡を手に取って、そこに映っている血まみれの顔をじっくりと眺めた。暫くしてから彼はその鏡を手放し、机の上に逆様に置く。すると、そこに集まったすべての光が溢れ出し、ジョーカーの眼に流れ込んだ。その光によって、ジョーカーの瞳はキラキラと輝いたのだった。

 

-

 

 執事が報告にやってきた。ジョーカーが邸宅から離れるとき、庭園で死体を埋めていた庭師に出くわしたらしい。

 大雨によって庭の泥が洗い流され、最近街で失踪した人々が露わになっていた。そのため、仕方なく埋め直しているところだった。しかし、そんなことは些細なことだ。ジョーカーは私の如何なる秘密も掴めていない。彼が持ち帰ったのは、庭園にあった一本のノコギリだけであった。

 

 夜が明けた。私たちを乗せた馬車が、この小さな街から離れていく。橋の向こう側で、カーニバルが焦土と化していた。入り口は封鎖され、あちこちに警官と探偵の姿がある。

 彼らは、昨夜ノイジーサーカス団が月の河のほとりで最終公演を行っていたときに、ノコギリと灯油を持った人間が現れて、テントにいた人々を皆殺しにしたと告げた。

 ただ一人、赤髪の踊り子だけが生き残ったそうだ。私は車窓から、河に映し出された彼女の姿をとらえた。それは、ジョーカーと比べたら、どうしようもなくつまらない顔であった。

 

終わり